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アートにはルールがある「芸術闘争論」

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「現代美術は難しくてよくわからない。」
 そんな声をよく聞く。
 僕もその一人だった。

 どんな分野にも、業界の仕組みと言うものが存在するし、多くの場合はなんとなくでもその構造を推測してみることもできる。
 例えば漫画なら漫画家は出版社へ所属することで作品を世に送り出し、印税を受け取ることができる。そのための仕組みとして、原稿の持ち込みやオーディションなどの制度もあるので門戸はだれにも等しく開かれているようにみえる。
 音楽業界も同様だろう。もっとも、こちらはネットの普及によってドラスティックな変化の波に呑み込まれているところだけど。


 ところが、現代美術のことになるとその構造はなかなかみえてこない。

 作品の価値はどのようにして決まるのか?
 現代美術家はどこでどのようにして評価を受けるのか?
 そもそも、現代美術とはなんなのか?

 次々と浮かぶそんな疑問に明快な切り口で答えてをくれたのがこの1冊だった。

芸術闘争論

芸術闘争論

 

  日本を代表する現代美術家村上隆が現代美術について語った本で現代美術の成り立ちや国内外の美術制度の違いなどが率直に綴られている。
 現代美術を解説する本は沢山あるが、世界のマーケットで闘っている現役の現代美術家が書いているという点でこの本は他のそれらとは一線を画す。この本を読み終えた頃には現代美術の鑑賞のしかたはもちろん、マーケットの舞台裏まで見えてくるようになった。

  中でも最も衝撃的だったのは、”現代美術にはルールがある”ということだった。
 これまで芸術とは自由なもので心のままにつくりだされているものだと思っていたし、日本の美術教育もそのようになされてきていたはずだ。
 ところが、現代美術はまったく違う構造を持っていて、まずそのルールを知らなければならない。その前提を日本人は共有していないので現代美術を理解できないし、世界に通用する美術家もでてこないのだと村上隆は本書で熱く訴える。

 

今、ぼくは現代美術をゴルフやテニスにたとえると全米オープン全英オープンのランキングでだいたい一0位から二0位に入っている選手です。西欧では評価されるのに、なぜ日本で批難されるのかといえば、日本人が西欧式のARTのルールを知らないからとしか言いようがありません。

マーケットには先ほど述べた画商さんであるとか、資産家、アドバイザー、キユレイターとか美術館とか館魅鯛魅がプレイヤーとしていっぱいます。ARTのルールとは何かという最初の問いに戻れば、このプレイヤーたちの望むもの、それがルールです。

同じ日本人だったら狩野山雪あり金田伊功あり、日本の美術は実はマンガだよといった辻惟雄先生がいて、歴史が串刺しにならなければ現代美術ではないわけです。

現代美術は自由人を必要としてない。必要なのは歴史の重層化であり、コンテクストの串刺しなのです。


 つまり、美術史を引き継ぎながら新しい時代のアイコンとなる作品をつくるのが現代美術であり、そのトレンドはマーケットにも影響されるということだ。
 しかし、この前提は日本の現代美術業界では共有されていないのが現状であり、日本の美術大学の教育についてはこう語られている。

自由神話、つまり、自由とは何かといえば、「誰にもおかされない」で自分一人で考える。そこからすれば、傾向と対策で絵を作るなんてとんでもない悪魔の教義です。みなさん自由になりましょうといって、しかし、そういうだけで、その実何もしないことを正当化するだけであることは前に述べました。ぼくの同世代も大学の先生になっているわけですが、なぜ若い頃ぼくらと閉じ志を持って今の大学教育ってよくないよねと言っていたのに、美大教育がこれだけ同じ、三0年前と変わらないものになっているのかというと、それもおそらく同じ自由神話の問題だと思います。

 
 これらは村上隆の実体験から書かれている言葉であり、そういう意味では現代美術のある側面についてのみ明らかにされているものなのかもしれない。
 しかし、だからこそ、世界の現代美術シーンの最前線でサバイブしつづける現代美術家の言葉として重く響く。

 現代美術は基礎的な美術史を知っておくだけで楽しめるようになる。
 歴史の重層化、ようするに、その元ネタがどのあたりにあるのかがわかるようになるからだ。
 こうした知的好奇心をもって美術に接する人々が増えれば日本の現代美術もグローバル化される環境が整っていくのかもしれない。

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