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目がさめるほどに刺激的な1冊「寝ながら学べる構造主義」

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レヴィ=ストロースは要するに「みんな仲良くしようね」と言っており、バルトは「ことばづかいで人は決まる」と言っており、ラカンは「大人になれよ」と言っており、フーコーは「私はバカが嫌いだ」と言っているのでした。
(引用:「寝ながら学べる構造主義」あとがき)

内田樹さんによる構造主義の入門書。

この本は2つの意味で衝撃的だった。

1つ目はわかりやすさ。  
現代思想についての知識をほとんどもっていない僕が読んでも内容がスラスラと頭に入ってくる。  
平易な文章、具体的なたとえ話。  
予備知識のない相手に話を伝えようとするその誠実な姿勢に感動してしまう。  

そして、2つ目は構造主義という思想の鮮やかさ。
天動説から地動説へ切り替わるようなダイナミズムで自分と社会に対する視点が切り替わる。
この世界に対する認識の変化は映画「マトリックス」の主人公になったような体験だった。

構造主義とは

 構造主義というのは、ひとことで言ってしまえば、次のような考え方のことです。
 私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。むしろ私たちは、ほとんどの場合、自分の属する社会集団が受け 容れたものだけを選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。そして自分の属する社会集団が無意識的に排除してしまったものは、そもそ も私たちの視界に入ることがなく、それゆえ、私たちの感受性に触れることも、私たちの思索の主題となることもない。

構造主義言語学者であるソシュールによって基礎づけられ、フーコー、バルト、レヴィ=ストロースラカンがそれぞれの研究分野に応用しているが、人間が社会を作っているのではなく、社会が人間を規定し形作っているという視座が通奏低音として流れていることに変わりはない。

構造主義四銃士

フーコー、バルト、レヴィ=ストロースラカン構造主義四銃士と呼ばれるに至った。

フーコー

 フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。
 それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。

  

 知と権力は近代において人間の「標準化」という方向をめざしてきた、というのがフーコーの基本的な考え方です。

 

 近代国家は、例外なしに、国民の身体を統御し、標準化し、操作可能な「管理しやすい様態」におくこと──「従順な身体」を造型することを最優先の政治的課題に掲げます。「身体に対する権力の技術論」こそは近代国家を基礎づける政治技術なのです。  その技術は、当然、最初は、国家の武装装置である兵士の身体の標準化と統制に向かいます。しかし、そこにとどまるわけではありません。森有礼の兵式体操と同じく、その次には必ず「監視され、訓練され、矯正される人々、狂人、子ども、生徒、植民地先住民、生産装置に縛りつけられる人々、生きているあいだずっと監視される人々」(『監獄の誕生』)に向けて、同じ政治技術が適用されることになります。
 身体を標的とする政治技術がめざしているのは、単に身体だけを支配下に置くことではありません。身体の支配を通じて、精神を支配することこそこの政治技術の最終目的です。この技術の要諦は、強制による支配ではありません。そうではなくて、統御されているものが、「統御されている」ということを感知しないで、みずから進んで、みずからの意志に基づいて、みずからの内発的な欲望に駆り立てられて、従順なる「臣民」として権力の網目の中に自己登録するように仕向けることにあります。
 政治権力が臣民をコントロールしようとするとき、権力は必ず「身体」を標的にします。いかなる政治権力も人間の「精神」にいきなり触れて、意識過程をいじくりまわすことはできません。「将を射んとすればまず馬を射よ」。「精神を統御しようとすれば、まず身体を統御せよ」です。

バルト

 私たちはインターネット・テクストを読むとき、それが「もともと誰が発信したものか」ということにほ とんど興味を持ちません。誰が最初に発信したのであろうと、それはインターネット上でコピー&ペーストされ、リンクされているあいだに変容と増殖を遂げて おり、もはや「もともと誰が?」という問いはほとんど無意味になっています。問題は、それを私が読むか読まないか、読んだあと自分のサイトにペーストした り、発信元のサイトにリンクを張ったりするか、という読み手の判断に委ねられています。これはバルトの言う「作者の死」とかなり近い考え方です。
 
「テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。 しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。(略)テクストの統一性はその起源にではな く、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって贖われなければならない。」(バルト「作者の死」)
 
 この一節はほとんどそのままインターネット・テクストに当てはめることができます。古典的な意味でのコピーライトは、インターネット・テクストについて はほとんど無意味になりつつあります。音楽や図像についてコピーライトの死守を主張している人たちがいますが、その人たちもむしろ自分の作品が繰り返しコ ピーされ、享受されることを「誇り」に思うべきであり、それ以上の金銭的なリターンを望むべきではない、という新しい発想に私たちはしだいになじみつつあります。

レヴィ=ストロース

 私たちは常識的には、人間が社会構造を作り上げてきたと考えてきました。親子兄弟夫婦のあいだには「自然な感情」がまずあって、それに基づいて私たちは親族制度を作り上げてきたのだ、と。レヴィ=ストロースはそのような人間中心の発想をきっぱりとしりぞけます。
 人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出すのです。

 

 ご覧のとおり、私たちは何らかの人間的感情や、合理的判断に基づいて社会構造を作り出しているのではありません。社会構造は、私たちの人間的感情や人間的論理に先だって、すでにそこにあり、むしろそれが私たちの感情のかたちや論理の文法を事後的に構成しているのです。ですから、私たちが生得的な「自然さ」や「合理性」に基づいて、社会構造の起源や意味を探っても、決してそこにたどりつくことはできないのです。

 

 レヴィ=ストロースによれば、人間は三つの水準でコミュニケーションを展開します。財貨サーヴィスの 交換(経済活動)、メッセージの交換(言語活動)、そして女の交換(親族制度)です。どのコミュニケーションも、最初に誰かが贈与を行い、それによって 「与えたもの」が何かを失い、「受け取ったもの」がそれについて反対給付の責務を負うという仕方で構造化されています。それは、絶えず不均衡を再生産する システム、価値あるとされるものが、決して一つところにとどまらず、絶えず往還し、流通するシステムです。

 

 レヴィ=ストロースの構造人類学上の知見は、私たちを「人間とは何か」という根本的な問いへと差し向 けます。レヴィ=ストロースが私たちに示してくれるのは、人間の心の中にある「自然な感情」や「普遍的な価値観」ではありません。そうではなくて、社会集 団ごとに「感情」や「価値観」は驚くほど多様であるが、それらが社会の中で機能している仕方はただ一つだ、ということです。人間が他者と共生してゆくため には、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」と「私たちが欲するもの は、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。
 これはよく考えると不思議なルールです。私たちは人間の本性は同一の状態にとどまることだと思っていますし、ものを手に入れるいちばん合理的な方法は自 分で独占して、誰にも与えないことだと思っています。しかし、人間社会はそういう静止的、利己的な生き方を許容しません。仲間たちと共同的に生きてゆきた いと望むなら、このルールを守らなければなりません。それがこれまで存在してきたすべての社会集団に共通する暗黙のルールなのです。このルールを守らな かった集団はおそらく「歴史」が書かれるよりはるか以前に滅亡してしまったのでしょう。

 

 それにしても、いったいどうやって私たちの祖先は、おそらくは無意識のうちに、この暗黙のルールに 則って親族制度や言語や神話を構築してゆくことができたのでしょう。私にはうまく想像ができません。しかし、事実はそうなのです。ですから、もし「人間」 の定義があるとしたら、それはこのルールを受け容れたものと言う他ないでしょう。
 人間は生まれたときから「人間である」のではなく、ある社会的規範を受け容れることで「人間になる」というレヴィ=ストロースの考え方は、たしかにフー コーに通じる「脱人間主義」の徴候を示しています。しかし、レヴィ=ストロースの脱人間主義は決して構造主義についての通俗的な批判が言うような、人間の 尊厳や人間性の美しさを否定した思想ではないと私は思います。「隣人愛」や「自己犠牲」といった行動が人間性の「余剰」ではなくて、人間性の「起源」であ ることを見抜いたレヴィ=ストロースの洞見をどうして反─人間主義と呼ぶことができるでしょう。

ラカン

 ラカンの専門領域は精神分析です。ラカンは「フロイトに還れ」という有名なことばを残していますが、そのことばどおり、フロイトが切り開いた道をまっすぐに、恐ろしく深く切り下ろしたのがラカンの仕事だと言ってよいと思います。

 

 ラカンの考え方によれば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」 になります。一度目は鏡像段階において、「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。二度目はエディプスにおいて、おの れの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することです。
 みもふたもない言い方をすれば、「正常な大人」あるいは「人間」とは、この二度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものの別名です。

 

 精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではありません。「治す」ことです。そして、 「治る」というのは、コミュニケーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせること、他の人々とことばをかわし、愛をか わし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往還運動のうちに巻き込むことに他なりません。そして、停滞しているコミュニケーションを、「物語を共有す ること」によって再起動させること、それは精神分析に限らず、私たちが他者との人間的「共生」の可能性を求めるとき、つねに採用している戦略なのです。

 

この記事を書くために久々に読み返したのだけど、引用したい箇所がいたるところにありアンダーラインだらけになってしまったので今回はその中でも構造主義のエッセンスが伝わる程度の引用にとどめた。

僕は社会というのは不完全な方舟みたいなものだと感じている。
完成された絶対的なものだとはどうしても思えない。
だから、根が不真面目なこともあってか無理に社会と合わせなくてもいいんじゃないかと思っているところがある。
その一方で、誠実で真面目な人が社会の中で苦しんだり自分を責めたりしているのを見かけることがある。
そんなとき、僕はおこがましくも声にならない声でこう思う。
「あなたはよくやっている。悪いのはあなたじゃない。社会がまだ追いついていないだけだ」
もちろん、こんなこと僕に言われても意味がないだろうし、大きなお世話だから直接伝えたりはしない。
だけど、知の巨人たちの言葉は僕のこの直感にも似た考えに多少なりとも根拠を与えてくれたように思う。

構造主義による指摘はスリリングで読んでいて飽きることがない。
現代社会を考察するためのサプリメントとしても役立つ1冊だ。

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