僕を変えてくれた読書と日常ログ。

おすすめ本と生活の記録

任天堂のファミコンはこうして生まれた!テレビCMでたどる家庭用ゲーム機の歴史

スポンサーリンク

最近、スマホ版のドラクエ8をプレイした。
もう何年もゲームで遊んでいなかったせいもあるのだろうけど、その完成度に驚いた。
リメイクとはいえ据え置き型のハードでリリースしていたタイトルが携帯型のしかもゲーム専用機ではないスマホで動いていることに衝撃を受けてしまった。

進化に感動したので、ゲーム機のテレビCMを年代順にまとめてみたよ。

思い出が蘇ったりして途中で遠い目になったりするけど、プロダクトデザイン、マーケティング戦略など背後にある逸話がドラマチック。

 歴代ゲーム機のテレビCM

1977年 [任天堂] カラーテレビゲーム15

任天堂は家庭用テレビゲーム業界では、むしろ後発の部類に入るメーカーで、当時は自社内にもテレビゲームの開発ができるスタッフも揃っていなかったという。

本製品に先んじる事2年のエポック社テレビテニスで主流を作っていた市場にあっては同製品が2万円前後という値段のため、後発メーカーとしては価格で勝負するしかなく、ゲーム機としての機能を削りに削ってとにかく安く作り上げ、それでも完全な赤字で製造・販売された「6」と、やや他社製品より安いが採算の取れる「15」で攻勢をかける事となった。

実際は「6」も「15」も中身(電子回路や基板)は基本的に同じ物が入っており、「15」の機能を後から手を加えて表面上利用できないようにしたのが「6」である。2万円が1万5,000円になっても大きなインパクトはないが、1万円を切っていれば印象が全く違う。そこで「6」で客の目を引きつけ、その上で沢山遊べる「15」の方を選ばせるという二段構えの戦術を取り、多少の赤字には目をつぶるという狙いがあった[1]。また同じように参入を狙っていた他社は9,800円のライバルに二の足を踏み、手を出す事ができなかったといわれている。ほとんど啖呵売の世界であるが、結果的にこの狙いは的中することになる。

なおエポック社は先発メーカーの強みもあって、任天堂の発売に触発されて同年に同じ価格帯で4人対戦も可能で射撃ゲームも楽しめた製品「システム10」とその廉価版の「M2」を投入したが、それでも任天堂の製品は、そのコンパクトで扱いやすいことから一定の評価を獲得していた。

この時代、テレビゲームといえば本製品のようなPONGクローンとも呼ばれるテニスゲーム以外にも、様々なゲームへと多様化して行く過渡期にあったが、この「6」と「15」の合計で約80~100万台(諸説あり)を売り上げる結果となり、後に任天堂の「安価なハードウェアで売り抜け」路線を決定付ける事となる。特に本体売り上げよりもソフトウェア売り上げが重要視されたファミリーコンピュータでは本製品で自信を付けた任天堂が強気の販売戦略で本体価格を大幅に下げる一因ともなった。
(引用:カラーテレビゲーム15 - Wikipedia

 

 

1979年 [任天堂] ブロック崩し


1980年 [エポック社] テレビベーダー

エポック社が発売した、タイトーの『スペースインベーダー』を家庭用テレビゲームにアレンジしたもの。これまでもスペースインベーダーを移植したゲーム機はあったが、いずれも高価なマイクロプロセッサを使用したカセット交換式のゲーム機で価格も5万円を超えたため普及しなかった。そんな中で本機はインベーダー専用ながら15,000円の価格設定で、かなりの普及を見せた。
(引用:
テレビベーダー - Wikipedia

 

 

1980年 [任天堂] ゲーム&ウオッチ

任天堂開発による初の携帯型ゲーム機である。ゲームソフトは本体内のROMに書き込まれた「1ハード1ソフト」であり、その後のゲーム機のようにカートリッジ交換で様々なソフトを実行することはできない。タイトルの多くは、難易度が低めのGAME Aと高めのGAME Bの内どちらで遊ぶかを選択できる(一部例外あり)。この選択方法はファミリーコンピュータの初期タイトルにも使用されている。ゲームをしない間は時計として使え、これが商品名「ゲーム&ウオッチ」の由来である。後に、アラーム機能も付くようになった。

第1作は1980年4月28日発売の「ボール」。タイトルにはスヌーピーミッキーマウスポパイなど他社の人気キャラクターを採用したものもあった。手元で遊べる手軽さが受けて社会現象にもなり、日本での売り上げ総数は1287万個、日本国外では3053万個で、合計4340万個[1]。当時の任天堂が抱えていた70億円近くもの莫大な借金を完済し、それでも40億円程の黒字がでるほどの大ヒットを記録[2]、高収益を得る優良企業へと転身を果たしただけでなく、その黒字をファミリーコンピュータの開発に投資したことでも知られる。任天堂のテレビゲーム路線のきっかけを作ったゲームとも言え、任天堂出石武宏上村雅之らは度々「ゲーム&ウオッチは任天堂のゲームの原点」という発言をしている。
(引用:ゲーム&ウオッチ - Wikipedia) 

 

 

1982年 [エポック社] デジコム・シリーズ ドラキュラハウス

1982年 [エポック社] デジコム・シリーズ モンスターパニック

1982年 [バンダイ] FL Uボート大作戦 / ドラキュラ城

1982年 [任天堂] ゲーム&ウォッチ(マルチスクリーン) 

初期のゲームウオッチは、プレイヤーキャラクタの移動も含め、本体左右に装備された丸ボタンで操作していた。

マルチスクリーン『ドンキーコング』はゲーム機史上初めて十字キー(説明書での呼称は『+ボタン』)を装備した。これまでゲーム機のコントローラといえば丸・角形ボタンかスティック状のレバーなどだったが、十字キーはコンパクトながら親指だけで4方向にキーを押す感覚が伝わる画期的な操作性で、その後のゲーム機の標準となっている。

(引用:ゲーム&ウオッチ - Wikipedia

1982年 [バンダイ] LCDソーラーパワー ダブルパネル 悪霊の館

1982年 [バンダイ] インテレビジョン

インテレビジョン とは、アメリカの玩具メーカーであるマテルが1980年に発売した家庭用ゲーム機。日本では、1982年7月にバンダイから発売された。
家庭用ゲーム機としては初めて16ビットCPU(CP1610[3] 0.9MHz)を採用し、グラフィック能力は解像度160×96ドット、16色表示、スプライト8枚と、当時ヒットしていたAtari2600よりも一歩抜きん出た表現力を誇り、アメリカではそこそこの人気を得ることができた。販売台数は20万台を記録[4]

しかし、1982年に発売した日本では、49,800円という高めの価格から位置づけを高級機としてデパートを中心に発売したものの、販売台数は3万台弱にとどまった。これを反省材料にバンダイは翌1983年香港のメーカーが開発したというアルカディアを19,800円とより廉価な価格設定でリリース[5]。インテレビジョンはアルカディアにその座を取って変わられることになり、日本ではわずか一年で市場から消えた。日本でのテレビCMは漫才コンビツービートが出演していた。

北米市場ではスポーツキャスターのジョージ・プリンプトンを起用したアタリVCSとの比較CMキャンペーンやケーブルTV回線を利用したダウンロー ドサービスなど家庭用ゲーム業界初の試みもあり、Video Game Crash(アタリショック)の煽りを受けて1984年にマテル社はエレクトロニクス部門を売却し家庭用ゲーム市場から撤退するものの、インテリビジョン の権利はエレクトロニクス部門のスタッフが中心となって新たに設立されたIntellivision Inc.(後にINTV Corp.に改名)に引き継がれ、当初は売れ残った在庫を処分していたが、後にメールオーダーという形で新モデルの本体や新作ソフトも販売されるなど、結 果としてINTV Corp.は1991年まで業務を継続し、最終的にインテリビジョン本体の総出荷台数は300万台に達した。
(引用:インテレビジョン - Wikipedia

1981年 [エポック社] カセットビジョン 

カセットビジョンは、エポック社1981年7月30日に発売したカセット式の家庭用ゲーム機
ファミリーコンピュータファミコン)が登場するまでの2年間に日本で最も売れた家庭用ゲームハードである。それまでのゲーム機の中では群を抜く40万台[1][2]から45万台[3][4]を売り上げ、1983年9月時点では日本で一番売れていると評されていた[5]
カセットビジョンは発売当時、手ごろな価格とカセットを取り換えることで別のゲームが遊べるというカセット式ゲーム機の利点や定期的にゲームソフトを発売し、ゲーム機市場でのシェア7割を獲得していた。また、発売時に放映のTVCMには当時人気のイモ欽トリオが出演していた。最大セールスはギャラクシアンの18万本。

1983年になると廉価版カセットビジョンJr.が発売され、カセットの価格は変わらなかったものの、その本体価格の低さは当時のターゲット層だった小学生には明確な利点となった。この年には任天堂からファミリーコンピュータが発売されファミコンと同価格帯の競合機の淘汰が進んでいる[12]が、カセットビジョンファミコンに対して競合する存在では無かったと開発者は見ている[1]

1984年になりファミコンがシェアを伸ばす中、エポック社は8月にカセットの値段を下げた最終作『エレベーターパニック』を発売した。また同年7月には互換性のない次世代機スーパーカセットビジョンを発売しており、カセットビジョンのブランドはそちらに受け継がれていった。
(引用:カセットビジョン - Wikipedia

1983年 [エポック社] カセットビジョンJr

 

 

1983年 [任天堂] ファミリーコンピュータ

ゲーム&ウオッチの事業を成功させた任天堂が、その利益を投入して開発した家庭用ゲーム機である。当時アーケードゲームで人気を博していたドンキーコングが見劣り無く家庭で遊べる程度の性能を目標に設定して開発された。

本体にえんじ色が使われているのは当時の社長の山内溥が好きな色だったためで、社長命令により決定。

8ビットCPUを搭載し、ゲーム機本体のスロットに差し込むロムカセットを交換することにより様々なゲームを楽しむことができる。

ファミリーコンピュータが発売された1983年当時、日本では家庭用ゲーム機、並びに低価格帯のコンピュータの市場はまだ黎明期で、複数のメーカーが争っていた(ファミコン登場以前に一歩抜けだしていたのはエポック社カセットビジョンで累計40万台を販売している[22])。その中でファミコンは競合製品と同価格帯にありながら、特化された設計により、ゲームに対しては高い性能を誇ること[注釈 9]任天堂自身の優れたソフト開発力、サードパーティによる豊富なソフトラインアップを実現したことで他を圧倒する人気を得た[注釈 10]
(引用:ファミリーコンピュータ - Wikipedia

1983年 [セガ] SG-1000

1983年7月15日に発売[4]。同日に任天堂ファミリーコンピュータファミコン)を発売した。同じ月にはエポック社カセットビジョンJr.を、トミーぴゅう太Jr.を発売するなど[2]、競争の激しい時期だった。

発売当初は5万台程度の販売台数を見込んでいた。実際には日本国内だけでも初年度で十数万台を販売し、さらに海外でも販売され、結果的に損益分岐点である20万台を上回る40万台を記録[7]セガの見込み以上に売れる大ヒットとなり、その後のセガ独自ハード路線を決定づけた。
(引用:SG-1000 - Wikipedia

1984年 [セガ] SG-1000II

1985年 [エポック社] スーパーカセットビジョン

本機はファミコンのブームが認知されつつあった1984年に登場した、ファミコンよりも1年ほど新しい機種であり、特にファミコンが品薄のときに順調に売上を伸ばしていった[2]。しかし発売から1年以上経過した1985年後半になると業界に大きな動きが訪れる。ファミコンでは決定的なキラータイトルが登場して急速にシェアが拡大。さらに本機とともに業界2番手を競っていたセガからはファミコンにも匹敵する高性能機セガ・マークIIIが登場したため、本機はハードウエア性能でも劣勢に立たされた。
(引用:スーパーカセットビジョン - Wikipedia

1985年 [セガ] セガ・マークIII

発色数などで任天堂ファミリーコンピュータファミコン)を上回る部分もあったが、ファミコンの爆発的な普及、サードパーティー制導入の遅れによるソフトラインナップの偏りにより、劣勢を覆すには至らなかった。しかし、ゲーム専門雑誌Beepでは大きくページを割いて取り扱われていて、「セガ人」と呼ばれるような熱狂的なマニア層を作り出した。

マークIIIがまだ開発中だった頃の日本は1983年に発売されていたファミコンが普及しはじめていた時期であり、主な競合機としてはセガが従来機 SG-1000のマイナーチェンジモデルSG-1000IIを展開していたほか、同時期には一部の機能でファミコンを凌駕する性能を持つエポック社スーパーカセットビジョンも登場した。この時点でセガはハードウエア性能で遅れを取ったが、1985年10月のマークIIIの登場によりファミコンに比肩する性能をもつ家庭用ゲーム機を市場に投入する形となる。この頃は任天堂セガエポック社の3社が時代を作ったと言われる[1]が、その後のファミコンの爆発的な普及に伴い、これらの競合機は最後発のマークIIIを除いて1987年頃までにほぼ収束。1987年10月にPCエンジンが発売されるまでマークIIIがほぼ唯一のファミコン対抗機となった[2]
(引用:セガ・マークIII - Wikipedia

1986年 [任天堂] ファミリーコンピュータ ディスクシステム

 

1986年 [シャープ] ツインファミコン

1987年 [NEC] PCエンジン

任天堂ファミリーコンピュータが発売から4年経過し、その市場を受け継ぐポストファミコンとして開発、市場に投入され、ファミリーコンピュータセガ・マークIIIと競合。後にスーパーファミコンメガドライブと競合した。NECグループとしてはコンシューマ初参入ハードで[1]ハードウェアソフトウェアの開発はハドソン(現・コナミデジタルエンタテインメント)が担当していた。

発売当時(ファミリーコンピュータの時代)としては常識を覆す高速・高性能であり[2]任天堂のシェアを崩すには至らなかったが、新規ハードとして一定の普及に成功し国内市場では1992年時点でスーパーファミコンに次ぐ24.7%のシェアを占めていた[3]。コア構想に基づき多くの本体・周辺機器が発売され、CD-ROMはいち早く実用化し、マルチタップファミコンに続いて早期に採用するなど進歩的な設計であった[4]

NEC-HEソフトウェア推進部長(当時)の安田清明は「ゲームの世界でもアニメキャラクタや声優を使ったゲームとアニメが融合した文化ができている。これは任天堂が作った文化にはなかったもので、PCエンジンNEC-HEが作ってきた文化だ」と評している[5]
(引用:PCエンジン - Wikipedia

1988年 [セガ] メガドライブ

日本市場では1988年にメガドライブの名称で、世界で最も早く発売された。任天堂ファミリーコンピュータNEC HEのPCエンジンと競合し、後に任天堂スーパーファミコンとも競合した。

TVCMにはいとうせいこうを起用。「ビジュアルショック、スピードショック、サウンドショック」を謳い文句とし、「時代が求めた16BIT」と、16ビット機である事を大きくアピールしていた。

1990年にメガドライブの出荷数はピークを迎え、年間70万台を出荷。この年のハード出荷数はファミコンが136万台、PCエンジンが127万台、スーパーファミコンが66万台と、熾烈な競争状態であった[6]

1991年に北米市場においてメガドライブが普及するきっかけになった『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』はメディアクリエイトの集計によると販売本数は10万本程度に留まり、日本市場において大きなヒットを記録するに至らず、ハードの出荷台数は前年と同じ70万台に留まった[6]

1992年時点の市場調査によると、各ハードのシェアはスーパーファミコンが55.9%、PCエンジンが24.7%、メガドライブ19.4%がとなっており、メガドライブは三番手に位置する結果となっている[7]

最終的な出荷台数はスーパーファミコンが1,714万台、PCエンジンが584万台、メガドライブが318万台となっており[6]、ライバル機種の牙城を崩すには至らなかったが、「メガドライバー」と呼ばれる熱狂的なファンを生み出し、根強い支持を獲得。日本国内において初めて100万台以上を出荷したセガハードとなり、セガの家庭用ゲーム機では「セガサターン」に次ぐ出荷台数を記録した。
(引用:メガドライブ - Wikipedia

1989年 [任天堂] ゲームボーイ

1280万台以上を売り上げた任天堂初の携帯ゲームタイトルゲーム&ウオッチを発売していた任天堂が、その次世代ゲーム機器として発売した商品。任天堂の携帯ゲーム機としては2つ目にあたる。同社を玩具メーカーとして成長させた横井軍平が開発。当初1988年8月発売予定だったが、翌年の春に延長された[要出典]。
(引用:ゲームボーイ - Wikipedia

1989年 [セガ] ゲームギア

前年の1989年に発売して大ヒットしていた、任天堂ゲームボーイに対抗して発売。発売時から一貫してカラー液晶を採用していることを大きくアピールしており、発売時に放映のイッセー尾形を起用したTVCMでも、「で、ヨウヘイ君は白黒なの?つまんないね」「やっぱゲームはカラーじゃないとつまんない」と語ったりと、対抗機種であるゲームボーイを強く意識した比較広告が展開されていた。
(引用:ゲームギア - Wikipedia

1989年 [NEC] CD-ROM2

1990年 [任天堂] スーパーファミコン

日本での出荷台数約1717万台、日本以外では約3193万台、全世界累計出荷台数約4910万台。対応ソフトは1990年から2000年の間に1388タイトル(非ライセンス品を含まず)発売された。

開発当初は、当時最大の市場シェアを持っていたファミリーコンピュータとの互換性を維持する為の開発努力も試みられた。実際に一部では上位互換などとも宣伝されており、発売前のモックアップで は映像音声出力およびコントローラを共通化した新型ファミコンファミコンアダプタ」により互換性を保つ案も提示されていた。最終的には互換性の維持を断 念し、新規プラットフォームとして発売された。しかしライトユーザーや大手ソフトメーカーの取り込みには成功し、既に発売されていたPCエンジンメガドライブを 超える規模のシェアを獲得。結果的に、第四世代、16ビットゲーム機の時代でも、任天堂はメインプレーヤーの座を堅持した。なお、最大市場の北米とフラン ス・ヨーロッパ・オーストラリア等の欧州市場では先行していたGENESIS(北米版メガドライブ)、メガドライブとほぼ互角の状態で市場を分け合う形に 留まっている。2003年に生産打ち切り、2007年には修理も打ち切られ、新規にゲームが作られることもなくなっているが[3]、未だに根強い人気を誇るハードである。2008年2月に調査が行われた「保有しているゲーム機ランキング」(オリコンランキング)でPlayStation 2(62.3%)、ニンテンドーDS(55.4%)に次ぐ第3位(42.5%)を記録した[4]
(引用:スーパーファミコン - Wikipedia

1991年 [セガ] メガCD

日本で内々に開発されたメガCDは、1991年6月に開催された東京おもちゃショー'91にて初めて公表され、同年12月に発売となった。日本市場における販売台数は1994年5月の時点で38万台と推測されており、これは当時の日本におけるメガドライブユーザーの11%にあたる[4]
(引用:メガCD - Wikipedia

1994年 [パナソニック] 3DO

3DO社の方針通り、あくまで情報家電と いう位置づけで販売し、メーカーもゲーム機ではなく「インタラクティブマルチプレイヤー」と称していた。3DOのビジネスモデルから原価以上に販売価格 を設定せざるを得ず、他のゲーム機と比べて高価だった。しかもゲームショップなどをメインに販売された競合ゲーム機に対し、3DO REALは松下が持つ家電としての販路を利用して主に販売された。

1995年4月発売の国産タイトル『Dの食卓』のヒットでハードもいったんは上向いた。しかし、これと同年9月末発売のコナミの『ポリスノーツ』以降は知名度の高いキラーソフトを継続的に送り出すことができず再び失速、SS・PSの世界展開開始に反比例して3DOの不振が顕著になった。なお、同年中にコナミからメタルギアシリーズの第三作目として『メタルギア3(仮)』の発売計画が進められるも、阪神・淡路大震災による神戸本社の被災と3DO市場の低迷から事実上凍結となり、1998年にPSのメタルギアソリッドと改変のうえ発売された[2]
(引用:3DO - Wikipedia

1994年 [バンダイ] プレイディア

1994年 [SNK] NEOGEO CD

1994年 [セガ] セガサターン

日本市場においてサターンは発売日に20万台、発売1か月で50万台、6か月でプレイステーションよりも先に100万台セールスを達成するなど、セガの歴代コンソールとしては最も好調な売り上げを記録し、ソフトも『バーチャファイター2』の130万本をはじめ『バーチャファイター』『デイトナUSA』『ファイターズメガミックス』『セガラリーチャンピオンシップ』『サクラ大戦2』『スーパーロボット大戦F~完結編~』といった50万本を超えるヒット作も続出したが、エニックスドラゴンクエストシリーズと双璧を成すスクウェアファイナルファンタジーシリーズ最新作だった『ファイナルファンタジーVII』 の開発がスタートした事を、発売前年の1996年1月から大量のTVCMを投入するといった入念な販売戦略が功を奏してPlayStationが優位に立 ち、またライバルの低価格攻勢に対しても十分な対策と成果を上げられないまま1998年の夏季商戦以降はソフトのリリース数も減少してしまい、それに応じ てサターン市場も縮小していった。
(引用:セガサターン - Wikipedia

1994年 [ソニー] プレイステーション

1990年代中期に「次世代機」と呼ばれた家庭用ゲーム機の一つ。開発者である久夛良木健の独特の技術論や、丸山茂雄らによる従来のゲーム機ビジネスとは異なるレコードビジネス仕込みの戦略で、セガ・エンタープライゼス(現・株式会社セガ)のセガサターンや、任天堂NINTENDO64と次世代機戦争と呼ばれた[5]市場競争に勝利し、ファミリーコンピュータのヒット以来任天堂が独占していた市場でトップシェアとなった。
(引用:PlayStation (ゲーム機) - Wikipedia

1994年 [NEC] PC-FX

1994年12月23日、PC-FXが発売される。1994年の年末商戦にはセガサターンPlayStationも発売されており、FXもこれらの2機種とともに次世代機戦争の一角を担うとされていた。しかし、市場を完全に読み違えるという致命的な戦略ミス[4]により、たちまちに他2機の勢いに引き離された。その結果、サードパーティーの参加を控えさせソフトの数も伸び悩んだ。
(引用:PC-FX - Wikipedia

1995年 [任天堂] バーチャルボーイ

スタンドに据え付けられたゴーグル型のディスプレイを覗き込むようにしてプレイする。視差の概念を採り入れ、左右の画面に異なる映像を表示させることで立 体画面を実現した。テレビに接続せず電池で駆動するが、視界を覆う専用ディスプレイが必要となるため、室内のデスクトップでのプレイが主となる、特異な ゲーム機である。
(引用:バーチャルボーイ - Wikipedia

1996年 [任天堂] NINTENDO64

当初は次世代ゲーム機戦争の本命として期待されており、「ゲームが変わる。64が変える。」のキャッチコピーと ともに登場した。しかし、度重なる延期による発売の遅延(ライバル機より2年近くも遅れた)により、登場時にはPlayStationが市場を占拠し始め ていたことが大きかった(Nintendo 64が発売された96年6月時点で、PlayStationの累計出荷台数は270万台を超えていた。97年3月末時点でNintendo 64の累計販売台数は204万台、98年3月末時点は315万台。対するPlayStationは97年3月末時点で累計出荷台数650万台、98年3月 末時点で1151万台だった[6])。開発環境の問題や64DD構想が難航したために更なるサードパーティー離れの参入メーカー不足によるソフト不足の現象が起き、普及が進まず、最終的なハード出荷台数は同世代のPlayStationはもとより、国内ではセガサターンにさえ及ばなかった。この結果、任天堂は据え置きゲーム機のトップシェアを失い、その後2世代にわたりその座をソニー・コンピュータエンタテインメントに明け渡すことになった。
(引用:NINTENDO64 - Wikipedia

1996年 [任天堂] ゲームボーイポケット

1998年 [任天堂] ゲームボーイ カラー

1998年 [セガ] ドリームキャスト

ソニー・コンピュータエンタテインメントPlayStationに劣勢を強いられていたセガサターンの次世代機として社運を賭けて開発され、1998年11月27日に日本国内で第6世代ゲーム機の先陣として発売された。

発売時期の近いゲーム機には、前世代機セガサターンのライバル機のひとつであったNINTENDO64や、本機より後に発売され本機のライバル機となるPlayStation 2などが挙げられる。

さまざまな要因からPlayStationシリーズとのシェア争いに再び惨敗し、2001年1月にセガドリームキャストを含む家庭用ゲーム機の製造とプラットフォームからの撤退を表明。ドリームキャストは事実上セガ最後のゲーム機となった。

ドリームキャストPRでは、大川功会長が懇意にしていた秋元康を宣伝プロデューサーに招聘。先代のせがた三四郎人気を引き継ぐ形で、ゲーム機そのものよりも出演者のコミカルな演技などインパクトを前面に押し出した様々な展開が図られた。宣伝広告費セガとしては空前規模の130億円を投じる事になった。

まずティーザー広告として1998年5月21日、22日に新聞での全面広告が打たれた。21日は「セガは倒れたままなのか」のコピーで戦国武将が討ち死にした場面の写真、22日は「11月X日 逆襲へ、Dreamcast」のコピーとともに、討ち死にしたと思われた武士たちが一斉に立ち上がる写真であった。このタイミングでの発売予告は『Dの食卓2』を開発していたワープの飯野賢治から要請があった[要出典]という。

同年6月にセガは秋元を社外取締役に選任。6月19日に「湯川専務」シリーズが開始され、小学生のグループ(子役)が「セガなんてだっせーよな!プレステのほうがおもしろいよな!」「帰ってプレステやろうぜ〜!」などのフレーズを湯川英一に言い放つ自虐的なCMが放送され、話題になった[13]。CMには湯川英一を筆頭とした当時のセガ現役役員が出演し、特に「湯川専務」は役者と見違えるようなコミカルな演技から一躍時の人となった。この第一弾のCMは事実上プレイステーションとの比較広告であり、登録商標である「プレステ」の使用許諾をSCEから得られたことで実現している。また、その内容自体がかつて「ビデオ戦争」(VHSβの規格争い)でソニーが規格争いの敗北を自ら認めた新聞広告(1984年の「ベータマックスはなくなるの?」)と類似した内容であり、関心を引き寄せる一方、皮肉にも発売後のマーケティングの失敗をセガ自らが予見した作品となってしまった。
(引用:ドリームキャスト - Wikipedia

1999年 [任天堂] 64DD

64DDロクヨンディーディー)は、任天堂アルプス電気の共同開発による、ゲーム機NINTENDO64周辺機器。本体の下に取り付けて使用する磁気ディスクドライブである。

当初64DD用として開発されていたソフトのほとんどが64DDの商用化の遅れにより計画変更され64カセットでの発売となったこと、更にはNINTENDO64の次世代機となるドルフィン(ニンテンドーゲームキューブ)の開発着手が公表され将来性を疑問視されたことも普及を鈍らせた。

磁気ディスクの大容量を活かし、ムービーシーンを多用した『ファイナルファンタジーVII』や、書き換え領域を活用した『ドラゴンクエストVII』等のゲームが製作される予定だったが、いずれもプレイステーションに移籍してしまった。
(引用:64DD - Wikipedia

1999年 [バンダイ] ワンダースワン

任天堂ゲームボーイを製作した横井軍平任天堂を退職後に起業したコト社が、企画・開発に大きく関わった[2]。名称の由来は、「水面上は優雅に見える白鳥でも、水面下では脚を必死にバタバタさせている」というところから来ていて、「外見上はスマートだが、中身は高性能」という意味が込められている。
(引用:ワンダースワン - Wikipedia

2000年 [ソニー] プレイステーション2

発売当初の外観は初代PSの本体やコントローラのデザイン、VAIOシリーズのネーミングロゴデザイン、一部本体デザインなどを手掛けた後藤禎祐[9]により「地球から宇宙へのメッセージを発信する黒い箱」(モノリス)をイメージして作られている。極めて直線的な形によって、従来の家庭用ゲーム機に多い「横置き」と、発売時点では他にはPC-FXくらいしか例がない「縦置き」が出来るようになっている。
(引用:PlayStation 2 - Wikipedia

2001年 [任天堂] ゲームボーイアドバンス

1989年から発売され続けて来たゲームボーイ(GB)シリーズにおいて約12年の時を経て新たに発売された後継機である。専用ソフトの他にゲームボーイゲームボーイカラー用のソフトを使用することもできた。

ハードウェアの能力は同社のスーパーファミコンSFC)を大きく上回る(1990年頃に最高の2DCG描写性能を誇っていたネオジオに近い性能)もので、2.5D(疑似3D)表現までこなせる。そのため、スーパーファミコン用として発売されていたゲームの移植やリメイクも可能になり、実際にスーパーマリオアドバンス2など多くの移植リメイク版ゲームが発売されている。液晶画面も応答速度が速くなっており、従来のGB用ソフトも画面の残像を排除して遊ぶことが可能となっている。

ただし、スーパーファミコンより表示画素数解像度)は若干少なく、X・Yボタンに相当するボタンがないため、そのまま移植されたソフトは本来のゲーム画面の範囲が入りきらず、操作系も完全に再現することはできない。

NINTENDO64並みの3D描写が可能なニンテンドーDSの発売により、ゲームボーイシリーズ最後のメジャーアップグレードとなった。
(引用:ゲームボーイアドバンス - Wikipedia

2001年 [任天堂] ニンテンドーゲームキューブ

ハードウェアの設計理念がソフトウェアメーカーの支持を集めたものの、発売がPS2に比べて遅すぎたこと、下位機種との互換性を持っていなかったこと、ディスク容量がライバル機と比較して少なかったこと、DVDの再生機能を搭載していなかったことなどが響き、参入メーカーはNINTENDO64より少し増加したものの、発売ソフトは少なく、任天堂の自社ソフトが売上の多くを占める状況となった。

日本ではNINTENDO64と同様、低年齢層を中心とした広い世代に一定のシェアを獲得したが、一番の顧客である若年層を上手く引き付ける事ができず、同世代の据置型ゲーム機の中では日本では2番手、世界的にはXboxにも劣勢を強いられ3番手となった。特にNINTENDO64のドル箱地域だった北米市場で4割近く販売台数を落としたことが痛手となった。
(引用:ゲームボーイアドバンス - Wikipedia

2002年 [マイクロソフト] Xbox

かつて、日本のゲーム機市場に他国メーカーが本格参入した例は少なく、Xboxの上陸は「黒船」に例えられて話題を集めた。2002年2月22日の日本市場発売に合わせてビル・ゲイツが来日し、『笑っていいとも!』に生出演したり、X JAPANYOSHIKIを起用したりと大規模な宣伝活動をした。

しかし、日本では年繁期(12月下旬-1月上旬)には当たらない時期に発売されたことに加え、発売当初はソフトのラインナップが洋ゲーだらけなどラ イバル機種に劣ること、さらにはゲーム機本体が「巨大な弁当箱」と表現されるほど大きく、日本の住宅事情に合わないなどの理由で、話題性の大きさに反して 電気店の店頭に在庫が山積みされる状況が続いた。

さらに日本では、発売直後に「プレイ中にDVDやCDのメディアに傷が付く」という問題が指摘される。日本国外ではさほど問題視されなかったが、日 本国内ではクレームが相次いだ。MSは「傷物」を嫌う日本の消費者心理を読み誤り、当初は「メディアに傷が付いても再生には支障が出ないので問題はない」 と説明するなどの対応を行ったため、ユーザーの反感を買ってしまう。その後、MSは無償での本体修理とメディア交換に応じたが、イメージダウンを回復する ことはできず、日本の売上げ低迷に拍車をかける結果となった。
(引用:Xbox - Wikipedia

2002年 [バンダイ] スワンクリスタル

2003年 [任天堂] ゲームボーイアドバンスSP

本体を折りたたみ型として携帯性と液晶保護性能を高めた他、液晶がフロントライト付き反射型TFTカラー液晶となり、周囲が暗い所でも画面が見やすくなった。ただし、フロントライトによって画面の色味に若干の影響がある。なお、この折りたたみ式デザインにより2003年度のグッドデザイン賞を受賞している。このデザインは、のちに発売されたニンテンドーDSを始めとする携帯ゲーム機に受け継がれている。
(引用:ゲームボーイアドバンスSP - Wikipedia

2004年 [任天堂] ニンテンドーDS

画面を2つ持つことや、タッチスクリーンマイクによる音声認識などの操作方法(ユーザインタフェース)、すれちがい通信といった通信機能を持っており、それらを利用した「Touch! Generations」という一連のシリーズを発売した[6]

2004年までのテレビゲームコンシューマーゲーム)業界では、特に映像表現に関わるハードウェア技術の発達に伴って全体的にゲームが画一的、マンネリ化状態に陥っており、ゲーム人口も減少傾向(ゲーム離れ)にあったため、それを打開することが焦眉の急[7]になっていた[8][9]。また、マスコミなどで非行引きこもりゲーム脳などゲーマーやテレビゲームのネガティブ・キャンペーンも行われていた[10][11][12][13]

ニンテンドーDSは斬新な方法で「ゲーム人口の拡大」を進め、新たな層の獲得にも成功した[8][9]任天堂が進めた「ゲーム人口の拡大」によって、教育や教材への活用[14][15]や、Wiiの誕生にも影響を与えた[8][9]。さらに、単なるゲーム機ではなく「所有者の生活を豊かにするマシン」を目指すと述べた[16][17]
(引用:ニンテンドーDS - Wikipedia

2004年 [ソニー] PSP

4.3インチモバイルASV液晶UMDメモリースティック PRO Duoインターフェースを採用する[5]無線LANUSBポートでの拡張性があり、PlayStation 2と較べても遜色のないグラフィック性能を持つ[7]。デザインは据置機のPSシリーズと異なり、PSP-1000シリーズを小笠原伸一、PSP-3000シリーズを曽我部卓が担当している。
(引用:PlayStation Portable - Wikipedia

2005年 [任天堂] ゲームボーイミクロ

2005年 [マイクロソフト] Xbox 360

2006年 [任天堂] ニンテンドーDS Lite

2006年 [ソニー] プレイステーション3

SCECEOとしてPS3の開発を主導した久夛良木健は、PS3の発売以前のインタビュー記事において「PS3が従来のゲーム専用機の枠に留まらない、エンタテインメントに特化した家庭用スーパーコンピュータ」であることをアピールした[73][74]。ここで言う「エンタテインメントコンピュータ」とはゲーム、オーディオ・ビジュアルを含む広範な娯楽環境の提供、またパソコンと同様の“誰もが自由にソフトを制作できるオープンな開発環境を持つ”ことも意味し、ソフトウェアをユーザーが独自に開発できる環境(Linuxなど)を提供することで、PS3というハードの魅力に惹かれたパワーユーザーが独自のソフトを開発することも見込んでいた[補足 3][75]

しかし、売上に関しては、Blu-ray DiscHD DVD規格争いが 終結していない最中で陣営戦略を含めての開発・製造となったために、生産体制の遅れや初期価格の高騰を招いたこと、ハード高性能化に伴う開発コストの上昇 などにより多くのソフトウェアメーカーが参入に慎重な姿勢を示したことなどで出だしに大きく遅れをとり、そして競合ハードであるWiiが新規ユーザやライトユーザのシェア獲得に成功した、約1年先んじて発売したXbox 360が海外で大きな市場を事前に築いたなどが重なり、PS2と比較して苦戦を強いられることとなった。
後に生産体制が整い、新型の発売とともに大幅な低価格化に成功し、ソフトラインナップが充実するにつれ、CECH-2000A型発売以降は売り上 げが安定していった。2012年12月末時点での世界出荷台数は7700万台となり、発売7年目にして競合ハードのXbox 360を抜き2番手となった[78]
2013年11月6日11月2日に世界累計売上台数が8000万台に到達したと発表した[2]
2014年12月に日本での販売台数が1000万台に到達した。競合機種のWiiも販売台数が1000万台を超えており、日本の据置型ゲーム史上初めて同世代・複数機種での1000万台到達となった[79]
(引用:PlayStation 3 - Wikipedia

2006年 [任天堂] Wii

任天堂はかつて据え置きゲーム機のシェアで優位であったが、その多くをPlayStationを擁するソニー・コンピュータエンタテインメントに奪われた。日本のゲーム市場自体が1997年をピークに2006年までは漸減していた[6](2007年はソフトの売上は前年比-2%だったが、売上全体では史上最高を記録)。

任天堂はゲーム市場が漸減している理由を、「ゲームの複雑化に伴うゲーム離れ」にあるとし[7]、 家庭用ゲームがハードウェア、ソフトウェア共に大きな進化を遂げると同時に、システムや操作の高度化・複雑化が進み、あまりゲームをプレイしない層とゲー ムをよくプレイする層の間でゲームに対する心理的な距離に格差が生じ、ゲームに対するスタートラインが、人によって全く違う状況になってきているのではな いかと考えた[7][8]

そこで、同社は

  • ゲーム人口の拡大(ゲームから離れてしまった人を呼び戻す。女性や高齢者といった非ゲーマー層を取り込む)
  • ゲーム定義の拡大(従来は存在しなかった作品を投入する。例:『Wii Sports』、『Wii Fit』)
  • 年齢や技量を問わず、誰もが同じスタートラインに立てること(コアゲーマーとカジュアルゲーマーが共に楽しめる)

を提案した。2006年E3前の会見で社長岩田聡は「ゲーム人口の拡大」が社長に就いた時に定めた目標であると語った。この提案を元に、任天堂は「ゲーム操作の高度化」に歯止めをかけるため、ユーザインタフェースの改良によって「このゲームの操作なら、自分でもできそうだ」と普段ゲームをしないユーザーに思わせることを具体的目標とした[9]

このコンセプトを同じくしてWiiに先駆けて発売されたニンテンドーDSでは、操作の簡便化と従来とは全く異なる操作感覚を実現した(タッチスクリーンなど)。WiiではニンテンドーDSとは別の技術、別のアプローチで操作の簡便化を図るべく、コントローラの改良が行われ、宮本茂を中心とする3年にも及ぶ研究開発の結果、生まれたのが「Wiiリモコン」である[10][11]
(引用:Wii - Wikipedia

2008年 [任天堂] ニンテンドーDSi

2009年 [任天堂] ニンテンドーDSi LL

2009年 [ソニー] PSP go

2010年 [ソニー] PlayStation Move

2010年 [マイクロソフト] KINECT

2011年 [任天堂] ニンテンドー3DS

任天堂ファミコン時代から液晶シャッターのゴーグルを用いた立体視のゲームを出しており、その数年後に「バーチャルボーイ」を発売するも商業的に失敗、撤退を余儀なくされた。バーチャルボーイの失敗後も任天堂は3Dの研究をし続け、「ゲームボーイアドバンスSP」の試作機に裸眼立体視を実験として取り入れる、「ニンテンドーゲームキューブ」では3D対応の回路を組み込むといったことを行なってきたが、当時は3D液晶が非常に高価で、また技術的な問題が解決せず実現しなかったという。
その後技術が進歩し3D液晶が安価になったこともあり、ニンテンドー3DS開発のタイミングで裸眼立体視を採用する。開発(発表)当時は3Dブームだったため、「ニンテンドー3DSは3Dブームに乗っかった商品」と言われもしたが、これに関して任天堂岩田聡社長と宮本茂は偶然が重なり戸惑ってしまったという[70]
(引用:ニンテンドー3DS - Wikipedia

2011年 [ソニー] PS VITA

2014年 [ソニー] PlayStation 4

PlayStation 3 (PS3) の次世代機となる、第8世代に属する家庭用ゲーム機である[4]SCEは「次世代コンピュータエンタテインメントシステム」と表現している[5]2013年2月20日東部標準時)にニューヨークで行われたイベント「PlayStation Meeting 2013」にて発表された[4]。2013年11月15日より米国カナダで先行発売され、発売24時間で100万台以上を販売した[6]
(引用:PlayStation 4 - Wikipedia

 

 

スポンサーリンク